酒場文化研究所

2020.9.16

言葉にならない酒の味

この仕事に携わるようになり全国の酒造蔵の呑切(のみきり)と言われる試飲会に呼んでもらえるようになった。こちらとしては業界の特権とばかりに半ば旅気分でウキウキと出掛けていくのだが、毎度心苦しく思うことがある。

呑切会はエンドユーザーが参加する一般的な試飲会とは異なり、お酒を飲んで「美味い」か「イマイチ」とか感想を呟いていればよいと言うものではない。商品になる前のお酒があれこれ飲めて嬉しいミーハーな気持ちもないわけではないが、曲がりなりにもお酒とエンドユーザーを繋ぐ役割の者として呼ばれているのだから、率直に感じたことを造り手にフィードバックするのが務めである。体面上は嬉しさを噛み殺し、神妙な顔をして酒を利く。そして用意された出展酒のリストに利き酒の評価を書き込んでいくのである。

心苦しいとはそのことではなくて、お酒のコメントを書くのがどうにも苦手なのだ。呑切会は通常最低でも50種類以上のお酒を一度に利かなくてはならない。同じ酒造蔵の年度違い、米違い、畑違い、さらにはタンク違いといったお酒が並んでいるわけで、それらの微妙な違いを表現するだけのボキャブラリーが追いつかないのだ。まさかすべての欄に「美味しい」などと書いて済ますわけにもいかないので、何か気の利いた言葉をひねり出そうとするのだがこれが難しい。あまりに困るので時に他の人の「解答用紙」を覗き見てカンニングを試みるのだが、真っ黒に埋められたコメント欄を見て、余計に自信を喪失してしまったりもする。

頭の中には生き生きとしたそのお酒のイメージが残っている。だけどそれを言葉にしようとすればするほどイメージと乖離していくようで、書いては消し、書いては消しているうちに無駄にコメント欄が汚れていく。

しかしそれは仕方がないと思うことにした。お酒の味わいを言葉で表現するのは、とても難しいのだ。私のボキャブラリーが貧しいことも一因かもしれないが、そもそも日本酒の複雑な味わいを細やかに描写できる言葉など存在しないのだ。

日本酒の味わいは平面ではなく立体的である。さらに時間軸も加わる。鋭角的に立ち上がって儚く消えていくお酒もあれば、じわじわと広がって長い余韻を残すお酒もある。言葉よりもむしろ絵を描く方が伝わるのかもしれないと思ったりもする(多分できないが)。

そして時間軸にも、口の中に含んでいる間の短い時間軸だけではなく、これから変化を重ねて熟成していくまでの何ヶ月、何年という長い時間軸がある。呑切会は蔵に貯蔵されている出荷前のお酒を利くことが本題なので、いずれ出荷されて消費者の手に届くまでの長い時間軸を計算に入れた評価が肝要である。

ちなみに、若いお酒に対してよく使われる「渋い」という表現がある。私も呑切会で多用する便利なワードだ。一見素っ気なくネガティブに取られかねない言葉だが、含蓄のある言葉である。まだ花開いてはないが、複雑な味がぎゅっと濃縮して詰まっている蕾の状態。将来スケールの大きなお酒に成長することへの期待が込められている。

そんな呑切会でのトラウマが原因ではないが、私は居酒屋でよく見かける日本酒のマトリクス図が嫌いだ。甘い・辛い、淡い・濃いの2軸で区切られた平面に銘柄がプロットされたお馴染みのアレである。初心者に分かりやすくて親切。それは確かにその通りだけれど、日本酒の味わいを2次元のチャートに分類するのは如何にも雑な発想に思えるし、平面的なイメージでは日本酒の面白みなど分かるはずもない。

少し話が飛ぶが日本酒を飲み慣れていない人に日本酒を勧めた場合によく聞くのが「飲みやすーい」という感想である。最初の頃はこの言葉を聞くとガッカリしていた。「飲みやすい」という言葉は一時期流行した「水のようにスッキリした」淡麗辛口の(没個性の)お酒に相応しい表現だと思っていたからだ。こんなに奥深い個性があるのに何故それが理解されないのだろうと。今では少し考えが変わった。如何にしっかりした骨格のお酒であってもバランスが取れたお酒が飲みやすいのは道理だし、初心者がそう感じてくれるのならむしろ話が早い。シメたものではないか。

こうしてお酒の味わいを言葉で表現することには絶えずモヤモヤがつきまとっていたのだが、それを少し解消してくれたのが、先期限りで竹鶴酒造を退職した石川達也杜氏から教わった「緩衝力」という概念だ。特に生酛の酒では、味覚として感じられない成分が「緩衝力」となり、味わいに作用するのだという。つまり舌先で感じられる味は氷山の一角に過ぎず、水面下でそれを下支えしている部分も含めて味わいなのだという考え方である。「骨太」とか「複雑」と評される生酛だが、いずれも味わいの表現としては抽象的すぎて伝わりにくい。だがそれも無理はない。既存の味覚表現では、舌先で感じる氷山の一角しか表現できないのだから。

この話は大変奥が深くて私にはまだ荷が重いので、またいつかお話しできたらと思う。