酒場文化研究所

2019.11.7

酒場考

日本で酒場といえば即ち居酒屋である。我々が日頃、何の疑問も持たず足を運ぶ居酒屋というもの、いつどのようにしてできたかご存知であろうか。

江戸時代中期、日本の酒造りは現在の日本酒の基礎となる生酛造りに到達した。灘からは「下り酒」が大量に江戸に運ばれた。江戸の酒屋は賑わいを見せ、人々が押し寄せた。そして、客たちはやがて軒先に居残って酒を飲むようになり、酒屋もちょっとしたつまみを提供するようになる。それが文字通り「居酒屋」の始まりである。

『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬画

当時の居酒屋の風景を描いた風俗画が多数残っている。そこにはチロリで湯煎した燗酒を提供する場面が描かれている。当時の酒の味を知る術はないが、技術的には完成されているのだから、きっと美味かったであろう。そして江戸の人たちにとってそれがどんなに幸せなひとときであっただろうかと思う。

我々現代人もその恩恵に預かっているのだ。先人たちが創った酒場の文化に感謝せずにはいられない。そしてそれを後世にも引き継いでいかないわけにはいかないのだ。

燗酒と私

私が営む純米酒三品という小さな店にも、時々20代と思しき若い人が来て、燗酒を楽しんでいるのを見ると心から羨ましいと思う。私は、いつからとは言えないくらい若い時分からたくさん酒を飲んできたが、アルコールなら何でもいいというくらいの豪快さをむしろ自慢にしていたところがあって、あまりお酒そのものについて深く考えることがなかったのである。

私と燗酒の出会いは、とある先輩の存在をなくしては語れない。大学時代の先輩でモノカキをやっていたK氏は型破りな性格の反面、大変勉強家でお酒に関しても博学だったので、彼と飲みに行く時には私は全てを任せっきりにしており、ただただ出てくるお酒を飲むばかりだった。したがって、私のお酒への嗜好は、K先輩の影響を全面的に受けて作られたものと言える。

いつしか、我々は燗酒ばかりを飲むようになった。そしてお酒に対する私の意識を大きく変えたのは、その頃彼がよく口にしていた「美味い不味いはもう興味あらへん。体に馴染む酒を飲むんじゃ」という言葉だったと思う。

やがてK先輩の紹介で、竹鶴酒造の杜氏・石川達也さん、大塚酒店の女将・横山京子さんと出会うことになる。場所は、西早稲田の「焼鳥はちまん」だった。どんな話をしたのか今となっては憶えていないが、ただの飲み手であった私が、お酒を売る側に足を踏み入れていく転機となった瞬間であることは間違いない。お酒はもはや彼岸の存在ではなかった。

その背景には、当時の私が抱えていた大きな不満がある。K氏が教えてくれた燗酒の楽しさを求めて「銘酒居酒屋」などと掲げた店に出向き、知った銘柄を「熱燗で」と指定して断られることが度々あったのだ。それも決まって「これは純米吟醸で熱燗にするような酒ではありません」と説教するような態度なのだ。言外に「熱燗にする酒は、下等な酒と決まっている」ということを言わんとしているのである。

そして、初代となる純米酒三品を道玄坂に開くことに至るわけだが、私を駆り立てていたのは、「日本人が自国の伝統文化であるはずの燗酒を普通に楽しめる店がないじゃないか」という飲み手としての義憤であった。

あれから8年が過ぎ、幸いにも燗酒の楽しさを広めてくれる酒場は随分と増えた。燗酒を愛する熱心な飲み手も増えて、いわゆる燗酒推奨蔵の日本酒ももてはやされるようになってきた。

しかし私が目指しているのは、もっと先だ。いつでもどこでも“普通に”燗酒が飲める世の中である。『男はつらいよ』の寅さんは、私にとって日本の酒飲みの理想形である。寅さんは、決して銘柄を詮索したりはしない。店に飛び込むなり「オイ熱いのひとつくれよ」と言うだけだ。飲み手がそう言うだけで、当たり前に旨い酒が出てくる…、それが日本の酒場のあるべき姿なのではないだろうか。

そんな酒場が街角にひとつある世の中を夢見て、今日も私はどこかで燗酒を飲む。それが私の酒場文化研究なのだ。

2019年秋
酒場文化研究所 所長 坂嵜 透
坂嵜 透
酒場文化研究所 所長
1967年 三重県出身