酒場文化研究所

2019.11.28

お酒の「おいしい」に絶対はあるか?

ご飯を食べてもお酒を飲んでも、人は簡単に「おいしい」と言う。「おいしい」という感覚は幸福であり、生きる喜びでもある。

しかし、食べ物の「おいしい」とお酒の「おいしい」は若干違う気がしている。インドのヨガ仙人など特殊な例を除くと、生きるためにご飯を食べないわけにはいかないが、お酒はそうではない。また、ご飯は大食いファイターなどこれまた特殊な例を除くと何時間も食べ続けるということはない。お酒は違う。大抵の場合、飲み始めると最低2時間位、2軒目、3軒目となれば5、6時間は飲み続けることになる。
限られた量しか摂取しない食べ物に求めるおいしさと、持続的に飲むことを前提としたお酒に求めるおいしさは、違って然るべきだと思う。

二十代の頃、ある取引先の人が高級すき焼き店に連れて行ってくれた。和牛の霜降り肉などそれまで食べたことがなかった私は、ひとくち食べて感動した。感動したが、15分後には脂で胸が焼けて気持ち悪くなってしまった。
鹿児島で本マグロの大トロを山ほどご馳走になったときも同じ結果だった。私はこれらの経験を通じて、とびきりおいしいものは少しだけ食べるのが良いのだと学んできた。
食べ物はそれで良い。ほんの束の間、舌先が至上の喜びに満たされれば幸福感を味わうことはできる。しかしお酒はそうはいかない。そもそもお酒がいくら頑張ったところで、霜降り牛や大トロのような感動を舌先にもたらすことはない。ウン万円の大吟醸でもお酒はお酒、舌先を喜ばせることでは霜降り牛に敵わないのだ。

それでも私は、お酒が食べ物に負けない幸せを人にもたらしてくれると信じている。つまりお酒の「おいしさ」は舌先だけで感じるものではないのである。
大吟醸がとびきりおいしいかどうかという議論は別にして、大吟醸のおいしさは舌先や鼻先で感じる香味が主体である。鑑評会などのテイスティングでは、舌先、鼻先にアピールする酒が高評価となるのが当然だが、日常に飲むためのおいしさとは物差しそのものが異なる。
大吟醸に限らず、ファーストインパクトに重点を置いたお酒は飲み続けるのが辛くなる。人の好みはいろいろと言っても、傾向としては間違っていないだろう。少なくとも私はそうだ。

私は、お酒のおいしさの本質は持続性あるいは普遍性にあるのだと思う。もう一盃、もう一本と飲みたくなるのがお酒のおいしさだ。合わせる食べ物がほしくなるのがお酒のおいしさだ。気持ちよく酔えるのがお酒のおいしさだ。毎日飲みたくなるのがお酒のおいしさだ。
そんなおいしさを備えたお酒を燗で味わうのに勝る幸せはない。飲み下すときに鼻孔にふんわりと広がるほのかな香り、そして食道を温めながら体全体にしみじみと染み渡っていくようなあの快感は、霜降り牛にも負けない幸せを与えてくれるのだ。

この手の問題を「お酒は嗜好品。好みは十人十色」で片付けようとする人が時々いるが、それでは虚しすぎる。私としては納得し難いのである。